特別記事・動画

視点

能登半島地震報告

能登半島地震報告

2024年1月1日に発災した能登半島地震により被害を受けた能登地域の現地調査を1月12~14日、2月1~2日に渡って、曽福、根木、宇出津、飯田、蛸島、輪島、曽々木、黒島を中心に実施した。原因となった1分にも及んだ地震の揺れによって引き起こされた人的被害と火災・津波被害をまとめた上で、鉄道・道路・港湾/漁港といった交通ネットワークの被害状況とライフライン及びまちなみ被害の概況を能登半島の内浦と外浦の 成り立ちに沿って報告する。

地震概要:能登半島地震は、2024年1月1日16時10分に石川県穴水の北東42kmを震央として発生したマグニチュード7.6(震源深さ16km)の地震で輪島市と志賀町で観測された震度7が最大震度となる。本地震では能登半島北部で最大約4mと大きな隆起が生じており(関東大震災は最大2m)、門前沖・猿山沖・輪島沖・珠洲沖の海底活断層群が連鎖した結果とされる。複数の断層が連動してずれ動いたことで揺れが長い時間にわたって続いた。震度6強を観測した石川県珠洲市では異なる方向へと進んだ断層の破壊の中間地点付近にあったためきわめて強い揺れが1分以上にわたって継続、珠洲市では去年5月の地震でも震度6強で当時の強い揺れの継続時間はおよそ10秒程度だったのに対して1分以上に及んだ長時間の揺れが被害を大きくしたと指摘できる。

津波被害を受けた三浦地区
津波被害を受けた三浦地区

人的被害:能登半島地震による死者は2月1日時点で236人(2004年の中越地震では68人、2018年の西日本豪雨では237人)が確認されており、石川県が遺族同意を得た死者114人について公表した資料によれば家屋倒壊100人、土砂災害8人、津波1人、避難所1人、自宅等1人となっている。さらに警察庁が把握している死因は222名中32名(うち30名は半島北部の輪島と珠洲)が低体温症・凍死であり、液状化や隆起、土砂崩れによって道路が寸断され救助を待つ間に死亡した可能性が高いと推定できる。穴水町の土砂崩れでは住宅3棟が巻き込まれ16人が死亡、前月12月雨と雪が例年より多かったことに起因して多量の水分が土砂に含まれていたことが報告されていることなどから、地震以外の条件が複合的に重なることで大地の揺れを契機に人的被害が拡大していったことが伺えよう。

火災被害:地震が発生した時刻は16時10分と夕食前であったこともあり、各地で相次いで火災が発生している。石川と富山、新潟の3県で17件の火災が発生し、このうち地震の揺れが原因とみられるものが13件、津波によるものとみられるのが3件確認されている。なかでも輪島朝市通り周辺の火災は、近隣の約200棟に燃え広がる中、近隣道路が液状化によるマンホール隆起や建物の倒壊、ひび割れなどによって道路を使った消火救援支援が難しくなったことで、火災の規模にもかかわらず深夜になってもポンプ車は4台が到着したに過ぎず10人が死亡、多くの建物が焼失した。焼失範囲は約50,800m2(糸魚川火災:約40,000m2)、区域内の建物数は約300棟(糸魚川火災: 147棟)と推定される。

液状化により隆起したマンホール群はライフラインだけでなく避難・救援交通を寸断した(輪島市)
液状化により隆起したマンホール群はライフラインだけでなく避難・救援交通を寸断した(輪島市)

津波被害:能登半島地震では、津波の浸水被害が石川県珠洲市で起きた一方、隣の輪島市ではほとんど起きていない。津波が輪島市沿岸部では地震で地盤が隆起するなどして浸水が起こりにくかったものと推定される。一方珠洲市南部では、正院町から宝立町までの約80ヘクタールの範囲が浸水。能登半島の北東端付近では、道路に泥がかかり家屋を津波が抜いている様子が現地調査により確認された。津波は三崎町、宝立町鵜飼で3メートルほどに達しており、家屋の流失や損壊を招いている。

鉄道・バス被害:北陸・上越新幹線全区間をはじめとするその他の新幹線は発災当日に一部運転を見合わせた後に復旧。JR七尾線の高松駅から和倉温泉間の運休のうち高松駅~羽昨駅間は1月15日、七尾駅間は1月22日にそれぞれ運転を再開している。全線で運転を取りやめているのと鉄道は1月29日からバスによる代替輸送を始め、拠点となる七尾への通学客が戻ってきている。のと鉄道は七尾駅と能登中島駅の間で2月中旬の再開を目指して復旧作業を進めているものの能登中島駅から穴水駅までの間は特に被害が大きく復旧に向けては時間を要している。又穴水から輪島/蛸島までの旧鉄道区間はすでに廃線されているため、バス路線の復旧に向けては道路網の復旧が不可欠となっている。

隆起した土地と転倒したビル(輪島市)
隆起した土地と転倒したビル(輪島市)

道路被害:高速道路では、日本海東北道、北陸道、関越道、上信越道、東海北陸道路、能越道、のと里山海道、磐越道が一旦通行止めとなった。のと里山海道では複数の箇所で道路の陥没や土砂崩れなどが発生し、陥没によって道路を通行していた自動車の孤立も発生。能越道では穴水~三井でも道路崩壊等をはじめ多数の被害が生じ穴水IC~のと三井IC間以外の区間は1月10日10時までに通行止めが解除。残り6路線では北陸道と磐越道で複数箇所に段差、クラック、陥没などの被害が生じたが、1月2日21時までに点検や補修を終えて通行止めが解除され、片側通行運用を道路管理者と交通管理者が連携することで珠洲・輪島・穴水方面の交通マネジメントが実現している。昭和50年代の締め固め基準に則った盛土の道路構造物の被害が目立つ一方、県管理区間となる国道249号ではトンネル崩落などによって多くの区間通行止めが発生、羽咋市の415号などでも通行止めが発生している。特に輪島-門前両地区を結ぶ国道249号では複数箇所で崩落した土砂が道をふさぎ、能登最長の中屋トンネル(延長1.26km)で天井が崩落し、門前側への物資供給や建物の応急復旧が遅れる一因となっている。能登島と能登半島を結ぶ能登島大橋と中能登農道橋が2日午前まで通行止めとなり、同島内で約800人が孤立状態となった。さらに能登空港では周辺の道路が寸断されたことから2日午後まで約500人が孤立した。志賀原発でも5~30キロ圏の輪島市7地区と穴水町の1地区が1月8日時点で道路の寸断で孤立化、最長で2週間程度孤立解消にかかった地区もあり、原子力規制委員会が定める「緊急時防護措置準備区域(UPZ)」の避難要件が満たされていない状況に陥っていたことが伺える。

輪島市朝市地区の火災跡。消失範囲は約50,800㎡に及ぶ
輪島市朝市地区の火災跡。消失範囲は約50,800㎡に及ぶ

漁港・港湾被害:石川県港湾課の調査で県内69漁港のうち60漁港が地盤の隆起や防波堤、岸壁、臨港道路の損傷などの被害を受けたことがわかっている。特に地盤の隆起は、志賀町の富来漁港から珠洲市の寺家漁港付近までに及ぶ。地盤の隆起による海底の露出や水深の不足を確認したのは21漁港、県水産課によれば漁船の転覆や沈没は146隻で、座礁16隻、船の一部損壊43隻、流出28隻、冷蔵庫や魚を選別する機器、倉庫の損傷26カ所も確認されている。輪島港では1メートルほど隆起し、接岸部が水深約2メートルになったことで船を出すのが難しく、船着き場までの道路も火災や液状化で損傷が著しいことから(1951年に避難港指定されて以来)漁船が金沢港や福浦港、富来漁港に移送避難することとなった。一方能登町や七尾市内など被災しながら操業している漁協支所は4カ所ほどで寒ブリなどの水揚げが始まっている。漁船以外に貨物輸送船や作業船などが利用する港湾でも県内12カ所のうち多くが被害を受けており、七尾港、穴水港、宇出津港、小木港、飯田港、輪島港において代行工事が国に申請されている。

4m隆起した黒島港内では水が干上がっている
4m隆起した黒島港内では水が干上がっている

ライフライン(電気・上下水道)被害:2月1日時点で石川県8市町の約40,890戸で断水が続いている。石川県の導水管や配水本管などの主要な水道管で耐震性が認められた管の割合を示す耐震適合率は36.8%(令和3年度末時点)と、同時期の全国平均の41.2%を下回っており、液状化などや橋梁部で大きな被害を受けた原因となっている。奥能登(輪島市、珠洲市、能登町、穴水町)を含む6市町では断水はほぼ全域に及び、二次避難の誘引の要因の一つとなっている。地震直後の最大停電数40,000戸に対し、2月1日時点で2,300戸と復旧が進んでいる。一方で輪島市北西部と北東沿岸部および珠洲市北西部は、停電復旧に2ヶ月超を要する可能性が高いとされ、津波被害や地区内の道路損壊、局所的な設備損壊等により復旧にはさらに時間がかかることも見込まれよう。

隆起した砂浜と倒壊した廻船問屋旧角海(かどみ)伊江住宅を若宮八幡神社から見る
隆起した砂浜と倒壊した廻船問屋旧角海(かどみ)伊江住宅を若宮八幡神社から見る

まちなみ被害:奥能登は北前船と北陸街道により内陸と航海路の交点となる在郷町・門前町・漁村が連担しながら立地してきたが、富山湾側の内浦と外洋に面した外浦において固有性のある独特のまちなみが被害を受けたことを現地調査により確認した。
 黒島地区の旧角海(かどみ)家住宅は代表的な廻船問屋住宅で、明治4年大火後、ミツボ様式の家屋は元通りに再建され、2007年の能登半島地震によって大きな被害を受けるも2011年に耐震補強され2023年7月に工事を終えたところであったが(母屋と北部のナカノマのザシキは残ったものの)ほぼ全損状態となった。旧角海家住宅がある黒島地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定され黒瓦と格子、下見板張りという共通要素を持つ町並みが若宮八幡神社や漁港とともに保存されてきたものの地形の中の集住を支えた石積み基礎や屋敷、神社などの被害は甚大で復原には時間を要すだろう。珠洲蛸島地区や飯田地区、輪島旧市街地でも同様の被害は大きい。外浦には珍しい曽々木に広がる平野を開発した近世豪農の暮らしを今に伝えてきた上時国(かみときくに)家の茅葺家屋も倒壊しており、奥能登の地域資源の津波被害は甚大といえる。能登の曳山は珠洲の飯田の燈蘢祭や天守に見立てた外浦独特形態へと変化した黒島型曳山、蛸島に代表されるキリコも被害も受けた。

交通管理者と道路管理者が連携して既存道路を広域に渡って一方(迂回)通行化する道路運用を実施
交通管理者と道路管理者が連携して既存道路を広域に渡って一方(迂回)通行化する道路運用を実施

おわりに

能登半島という土地は、富山湾に面した内浦と外洋に面した外浦を中心に、内陸部の丘陵地といってもいい低い山間地と浦浜に独自の流通ネットワークの下でそれぞれの集落が蓄積・連担してきた地域であると言ってよかろう。その一方で口能登は加賀藩の消費を伴う文化振興を下敷きに富山や飛騨を媒介することで東西境界を結びつけ列島を豊かにすることに大きな役割を果たしてきた。廻船や街道を利用する人々によって育まれてきた文化は豊かな林産と水産にも支えられて、環日本海の中で新たな歴史を刻んでいくことが求められている地域である。昭和40年代に国鉄能登線が蛸島まで開通したことを契機に奥能登観光ブームが起きた。昭和50年代の金沢・奥能登2時間圏構想に基づく能登有料道の整備や珠洲道路が開通した後、1990年代には志賀原発が稼働、2000年以降の能登空港の開港には費用便益を超えた地域への期待がこめられてきた。選択と集中により失われた30年を過ぎてまだなお、あるいは繰り返される災害を前に持続可能な国土を新たに描くことが求められている、これからもこの土地で生きていきたいと願う人々と共に。

令和6年能登半島地震 能登半島 道路の緊急復旧の経緯(国土交通省HPより)
令和6年能登半島地震 能登半島 道路の緊急復旧の経緯(国土交通省HPより)

令和6年能登半島地震 能登半島 道路の緊急復旧の経緯
国土交通省HP:https://www.mlit.go.jp/road/road_fr4_000155.html