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座談会

人のための街路・社会のための街路

人のための街路・社会のための街路

近代の都市づくりの中で失われてきた「人中心の公共空間」を取り戻そうとする動きが盛んになっており、その中でも街路は身近な公共空間として注目を浴びています。国の施策でもウォーカブルなまちなかの形成、歩行者利便増進道路、新型コロナウイルス感染症に対応するための沿道飲食店等の路上利用に伴う道路占用などに見られるように、通行機能を重視した管理の視点から、市民生活を豊かにするデザインとマネジメントの視点へと変わってきています。今回、公共空間の理論や実践に関わる三名をお招きし、今日及びこれからの都市の街路のあり方を再考する座談会を行いました。

いま街路に起きていること

伊藤 街路づくりの現場が今どうなっているのか、まずは泉さんに、国土交通省の方針や制度面を踏まえ、各地域の現場で求められていること、実際のデザインやマネジメントにおいて何がなされているのかを、ご経験を踏まえてご紹介いただければと思います。

 弊社は11名の事務所で、街路など公共空間の仕事を中心にしています。当初はNPOとして趣味や遊びとして「水都大阪」「北浜テラス」など水辺の空間の魅力づくりを手掛け、途中から事務所の仕事に変わってきた経緯があります。
 現在は、地域が主体になった公共空間の再編をテーマに、「なんば駅周辺広場化プロジェクト」や、「豊田市都心地区広場の計画・運営プロジェクト」「姫路・大手前通り魅力向上プロジェクト」「長門湯本温泉観光まちづくりプロジェクト」などに取り組んでいます。
 近年は公共空間の取り組みが増えていますが、河川や公園の分野に比べてまだまだ道路の分野は進んでいません。道路は数百人から数千人が利用する場所で、立場の異なるステークホルダーが多いため、一つの方向での意思決定が容易ではないからだと思います。制度整備は追いつきつつあり、実装化にはまだまだ現場課題がありますが、今後5年、10年で大きく変わっていくのでしょう。
 ただ、一方で「賑わいづくり」ばかりということには違和感があり、公共空間は稼ぐところではなく、民間用地で稼いで公共空間に再投資するのが本来のあり方だと思うので、逆転している部分もあるのではないでしょうか。
 制度が変わりつつある中で、今後地域でどうやって運営していくか、という段階に入っていくことを期待していますし、まさに取り組んでいるところです。

泉 英明 有限会社ハートビートプラン 代表取締役
泉 英明 有限会社ハートビートプラン 代表取締役

伊藤 制度が変わったことでどんな影響がありましたか。

 道路では従来、車と人を流すとされていましたが、「滞留」できるようになったことが非常に大きいと思います。河川や公園は滞留が当たり前の空間ですが、道路にはその考え方がなく、今回追加されたというのがまず、大きな進歩でしょう。

伊藤 羽藤先生は交通工学のご専門から、通行機能と滞留機能の関係、さらには沿道との関係についてどうお考えでしょうか。

羽藤 交通工学的には、自動車と道路の関係は古典的なテーマです。地方都市は車メインで暮らしているので、私が最初に挑戦した松山市の「花園町通り道路空間改変事業」は、6車線を2車線に減じて歩行者空間を拡張するものでしたが、大変な反対がありました。
 道路空間を街路にしていく際に、車の機能と歩行者の機能が取り合っている状況があり、「人のための街路にしていきたい」という思いはあっても、現実には行政と民間、地元の住民等の間で衝突が起こることがありました。そこで、交通シミュレーションや社会実験等を行い、新しい街路の使い方を地域の方々と一緒に作っていきました。当然ながら反対を表明する方、受け入れてくれる方がいて、その縺れ合いや反応の表明が、ひょっとしたら素晴らしいまちづくりという共感を生み出していったと実感しています。
 街路を考えることは公共を考えることであり、やりがいがある一方、車と人との対立は思っている程単純ではないというのが、少し分かってきました。

花園町通り道路空間改変事業
花園町通り道路空間改変事業
花園町通り道路空間改変事業

そもそも街路とは何か

伊藤 実務面のお話を伺いましたが、続いて街路の意味について伺います。吉原先生の著書『コミュニティと都市の未来』では、コミュニティ空間、ある種のコモンズのような空間としての街路について言及されていますが、ご研究を踏まえて、コミュニティ空間としての街路について教えてください。

吉原 いま、街路再生やまちづくりを考える場合、コロナのパンデミックの影響が無視できないと思います。パンデミックとともに、「ソーシャルディスタンス」が言われるようになりましたが、それは明らかに「フィジカルディスタンス」の誤用ですね。しかし、パンデミックが社会関係の変容をもたらしているという点では、誤用がかえって新しい問題を提起したと思います。
 街路については、一つにはパブリックより、「コモン」でとらえることが重要になっています。街路再生やまちづくりには様々なステークホルダーが関係していますが、現実には、それらの間の擦り合わせは非常に難しく、言われる程にガバナンスにもとづく公共圏は成立していないです。むしろコロナ禍の下での街路生活では資源をシェアすること、共有すること、つまりコモンが非常に重要になってきていると思います。この場合、物的資源だけでなく人的資源も含めた財をどのように共有するのかが、公共圏に代わって新しい争点として出てきています。
 そして、コモンに根ざす道路空間や街路の再生には「滞留」や「寄り道」が非常に重要になっています。パーソナルモビリティやスマートモビリティが取沙汰されていますが、どちらかというと技術や装置が強調されがちで、滞留やモビリティの視点がまだ十分に整理されていないような気がします。これからの街路空間を考える場合、イベントによる界隈の賑わいづくりのさらにその先が求められているのではないでしょうか。その場合コモン、つまり財=資源をシェアするという空間がどういう意味を持つのかが問われます。コミュニティをベースとするような「小文字のまちづくり」を、オルタナティブなものとして考えていく必要があるのかもしれません。

吉原直樹 東北大学名誉教授
吉原直樹 東北大学名誉教授

伊藤 近代都市計画の機能主義では、地区や施設で機能を分離して、道路は機能同士を接続する機能を分担しました。しかし、空間としての道路は多様な機能をコミュニティでシェアするのですね。

羽藤 道路について、車の速度で語る分解能は非常に粗いのですが、遅い交通になると途端に分解能は細かくなり、彩りを帯びて身近な問題として街路の上で語れたり、表現できたり、気付かされたりします。それはまさにコモンに向き合ったとき何らかの共通項をどうやって互いに見出していくかという問題になります。
 道後温泉という、地域の共有財でもある場所で、観光客も交えながら地元の方々と広場づくりをしたことがあります。新しい広場の使い方について、Zoom等のネットワークも交えてどう受け入れていくのか議論を進めていく余地は、広場という新しい空間ができて初めて分かるんですね。道路空間の見直しには、新たな空白から関わりができてくるということが一番大きいのかもしれません。

 元来、コミュニティで運営管理していた街路や路地が道路になって、道路管理者に一括管理されるようになった過程で、本来はコモンであったものが、コモンではなくなりました。入会地なども同じですね。皆で回していたものが個人の所有や行政の所有としてバラバラになり、何もできなくなってしまった状況から、もう一度コモンとして取り戻そうという動きが、様々なところで起こっています。
 道路は、車が走る場合には交通断面として考えることが一般的ですが、「大きな空き地・敷地をどう使うのか」というコモンの視点になると公園の設計のような方法や管理になります。例えば、長門湯本温泉では、どこにベンチを置くかについて、10㎝単位で考える世界です。
 他人のものである道路(の一部)であっても、皆で進んで綺麗にもするし、そこに外の人が来て交流が生まれていくという、コモンを取り戻す動きに制度が徐々に追いついてきているのではないでしょうか。

街路における新たなコモンとは

伊藤 道路はかつて公共が整備・管理する考え方ではなく、自分たちで必要だから通す道もあり、道普請で管理し使っていくものでした。もう一度コモンズとして考えようとする際に、新しい関わり方はあるのでしょうか。町内会などの従来の組織とも違うでしょうし、現代ならではの心の持ちようや開いていく方法がありそうですが。

 いつも思っているのは、個人に焦点を絞りたいということです。思いのある個人に任せられる制度というか、個人の妄想を社会が応援する制度を、と思っています。突出した個人や2~3人のグループあるいは企業が、「こういう使い方をしたら、その地域の皆も楽しくなるし、自分たちのメリットにもなる」ということをスタートにするのがいい。
 例えば、なんばのプロジェクトは、大阪駅周辺に対して取り残されたミナミが何とか集客したいという危機感から始まっています。最初は合意が得られないのですが、突出した個人のアイデアをデータや議論を経て紆余曲折の末に合意形成に馴染ませていきます。それを「プランニングの民主化」と呼んでいますが、従来の自治会や商店街組織のやり方と異なりますね。

人中心のなんば駅前の将来イメージ
人中心のなんば駅前の将来イメージ
2021年社会実験「なんばひろば改造計画」の様子
2021年社会実験「なんばひろば改造計画」の様子

伊藤 全体から個人ではなく、個人から全体なんですね。吉原先生は著書で「コミュニティを開く」と書かれていましたが、いかがでしょうか。

吉原 拙著で強調したかったのは、身分や資格をメルクマールとするような個人というより、アイデアを持ったただの人が地域の資源をうまく引き出しているということです。
それから、コミュニティが外に開かれていることが重要であり、例えば、コミュニティにおいて立ちあらわれているネットワークを論じる場合、町内会に代表される地域コミュニティも重要ですが、それ以上にテーマコミュニティのあり方が注目されます。ブルーノ・ラトゥールが「アクターネットワーク理論」において、アクターとは個人ではなくネットワークであり、そうしたネットワークが常にネットワークを生み出していくことを強調していいます。それがテーマコミュニティの基底にあるものだと思います。
 かつて複雑系の議論が交わされましたが、日本では残念ながらこれが経験的なレベルで議論されておらず、最近になって漸くまちづくりの現場で、大小様々なネットワークを目にするなかで議論され始めたような気がしています。そこで大切なのは、噴出するネットワークを多様なステークホルダー間のせめぎ合いに解消するのではなく、むしろシャロン・ズーキンのいう「オーセンティシティ」などに関連づけて論じることだと思います。
 ズーキンのいう「オーセンティシティ」は、私なりに解釈すると、地域には生活と労働の継続点やプロセスがあり、それがド・セルトーの言う「日常的実践の空間」を作り出していることです。この「日常的実践の空間」をすくい出して街路に活かすことが街路再生に不可欠だと思います。

羽藤 「オーセンティシティ」という言葉は世界遺産や自然遺産においては、正統性として評価されますね。これはある意味、歴史由来のもので、揺るがない堅い組織論でもあり、それ以外を排除するところがあります。しかし今、ユネスコの認定においては「インテグリティ」という考え方があり、メカニズムさえ残れば、場所は変わっても保存されたことになる、仕組み自体を価値あるものとして認めようとしていますね。
 コモンをどうやって組織・人が担っていくのかということを考える際に、開放系であることが非常に重要だと思います。そして同時に、それを支える何らかの機構が求められています。
 新しい開放系のネットワーク論の中で、道路から街路、それに付随する広場が生まれ、経路が生まれ、回遊空間が生まれてくる。そこでは様々な人が豊かにコミットメントできる。当然ながらバーチャルやフィジカルが混じり合いながら、できるだけ開かれたものが望ましい。
 街路に開かれた場所を用意しておくと、不定期外来のように様々な人がやってきます。それは街を大きく変えることではないかもしれないですが、社会的弱者とされる人たちや居場所のない人たち、誰もがスタックしないで循環してくような動きを新しい街路は持つべきでそういうところを目指していきたいと思います。

吉原 ズーキンは「オーセンティシティ」論で、都市にはこれまで以上に異質なものが多様に埋め込まれていくだろうと言っています。例えば、エッセンシャルワーカーが都市空間にどんどん参入していく。少子高齢化の進む中で、労働力の確保、とりわけ社会を維持して再生していくためにエッセンシャルワーカーの確保が不可欠となりますが、彼ら/彼女らがどう住まうかが大きな課題になりますね。
 近年、未来社会の予測と関わってオートモービリティのあり方が取沙汰されていますが、そこで一つの論点になっているのは、車の垂直=上層移動が必至であり、それに伴ってアッパークラスの空中都市が出来上がるが、逆に地表面ではエスニックな低賃金労働者のプールができあがるというものです。そうした中で、ダイバーシティは絵空事であり、むしろ都市空間に鋭い亀裂が走り、格差が刻み込まれるという議論も立ちあらわれています。

羽藤英二(当会会長) 東京大学大学院工学系研究科教授
羽藤英二(当会会長) 東京大学大学院工学系研究科教授

羽藤 ニューヨークは工場の跡地を全部タワーマンションにはせず、移民や難民向けの二次産業不動産を意図的に残しているんですよね。言葉が話せなくても働くことができる。そうした人々が都市の中にいることで多様な文化を育むことがニューヨークの文化の力になっています。
 大分で「祝祭の広場」を作った時に最初にやったイベントはラップでした。大分は新産業都市由来で、二次産業の方が多いため、街路空間はオープンなのでラップやダンス、グラフィティ等を含めて文化を受け入れる素地があったからです。そういう人たちが楽しく集まって、開かれているので道行く人たちにも見え、新しい大分の風景になっていく。街路空間は様々なインパクトを与えられると思いますね。

吉原 外から来た人も当然街路空間の形成・維持に加わりますから、彼らの母国・母社会から引き継いできた文化をそこに再埋め込みするわけです。「街路空間のオーセンティシティ」といった場合に、そういった文化がどれだけ厚みをもたらすかが鍵になると思います。それは、街路空間の可能性を非常に広げると同時に、不安定さをもたらし、場合によっては秩序を維持していく際の障碍になるという議論にもなりかねません。だから両義的におさえる必要があります。

羽藤 街路デザインは綺麗でシンメトリーなものが評価される傾向もあり、街路が様々な居住者や訪問者に呼応するかたちで新しい纏い・装いを生み出していく際に、それが受け入れられない場合もあるように思いますね。

吉原 新しく作り出していくべきものかもしれないけれど、街路空間には耐える力も必要でしょう。

羽藤 そうですね。まちが合意に至る過程で、受け入れ側の態度や試みる側の熱意、彼らがどのようにコミュニティにコミットメントするかという覚悟が新しいコモンのあり方を決めていくんでしょうね。

 街路は誰かのものではなく、様々な人が受け入れる場所であり、格差や差別もあれば、様々な人が利用する場所でもあります。必ずしもステークホルダー全員の賛成がなくてもいい。「嫌だけど反対はしない」ところまで行くのが文化だと思います。「相手の言っていることはリスペクトするが、ここで折り合おう」という試みは、とても煩わしいと思いますが、それが魅力として表れるのが街路のようなところで、その有り様を見ると、まちの態勢や覚悟が分かります。
 そういう煩わしさをやめて1か0に割り切ると思った瞬間に、魅力は消えてしまう。煩わしい状態をどう継続するかがコモンの知恵であり、お互いの立場を理解すること、あるいはデータやバーチャルを上手く使うことかもしれません。その技術はもう少し開発できるのではないかと思っています。

羽藤 議論を積み重ねて初めて生まれることがあり、そうやって作っていくことがコモンなんでしょうね。

伊藤 インターネットの理想は「世界中の人が繋がる」ことでしたが、実際には同質的な小さなコミュニティに閉じていくことが分かっています。同じように、現実の空間でも世界中に出現するゲイテッドコミュニティなど同質的なコミュニティ空間を作る傾向があります。その中にあって街路は、どうやっても様々な人がいる空間であり、まさに煩わしいところの最先端にあるからこそ意味があると思いました。
 同質的なコミュニティが増えると、その先に創造性が感じられません。道路は煩わしくても、新しいものが生まれてくる可能性に満ちている印象がありますが、現場は大変ですよね(笑)

伊藤香織(司会・企画・広報委員) 東京理科大学理工学部建築学科教授
伊藤香織(司会・企画・広報委員) 東京理科大学理工学部建築学科教授

吉原 アーバンデザインはある種のユートピアを作りますが、それは一歩間違えればディストピアを作る。しかし、それを恐れないことですね。コインの両面のようなものとしてとらえ、それを経験知として新たな街路再生に活かしていくとすると、どうすればよいのでしょうか。

羽藤 多様性はとても生き生きしていて素晴らしい一方で面倒くささがあることを受け入れるところに時間やお金を使って、それが必要だという認識を得ることが重要です。そのためには、泉さんのような活動を成功体験として社会が積上げていくしかないでしょう。
 それは従前のビジネスではなく、コモンであり、パブリックであると思います。個人がそこで、一人ひとりがどう態度を表明し、面倒くさいことを引き受けていくか、ということでしか豊かな風景は生まれ得ない。そういう覚悟、「でもよかったね。やっぱりやりたいね」という循環をどう生み出していくかということに関わっているのでしょう。

伊藤 今、街路再生やまちづくりに「賑わいづくり」が必ず言われますよね。賑わいを作るのも大事ですが、社会的弱者や一人で静かにいたい人でも行ける・居られることもそれ以上に大事だと思います。「賑わい」って貝偏だからお金の問題だと思うんです。行政の財政が苦しい中で、民間に任せる部分が大きくなると、どうしても貝偏の賑わいづくりに偏りがちです。

羽藤 公園も道路も指定管理者制度による管理の中で、ある程度利益を上げなくてはいけません。駅まちづくりでも、利益を回収しなければならない状況では、コモンズやパブリックはどうしても生まれにくくなる。ただでさえ移動がリモートで減っていく中で、ネットの中で「物を買う」といった、従前の街路空間に埋め込まれていた商業機能が奪われているわけですから、街路からいかに利益を上げていくかが課題になっていることも事実です。

伊藤 その時に、これだけは担保しなくてはいけないことが提示できるとよいですが、公共性と収益性はせめぎ合っていますね。

羽藤 商業機能だけが街路空間を埋め尽くすのではなく、誰もが関われるプログラムがあったり、独りになれる空間があることが、結果として経済も回していくことにもなる、あるいは自分が個の人間としての充足がもたらされる。それは従前の車中心だった道路よりもバージョンアップされたものですし、それこそが社会を変えていくんだというコンセンサスを引っ張り上げていかなければなりません。

都市移動の中の街路

伊藤 吉原先生よりモビリティのお話がありましたが、現代の都市生活では、都市空間にコンテンツが点在していて、その間を繋ぐだけの移動になっているように思います。コンテンツがリアルコンテンツでなくなると、街に出なくなってしまうという危機感があり、街路空間や移動自体の体験を考えていかなければならないと思っています。

羽藤 渋谷でコロナ前後の移動体通信の位置データ分析を比較すると、コロナ禍で大きく動き方が変わりました。1回の移動で何か所を回るかというストップ数が大きく減ってピンポイントの移動になっており、回遊と言われるような行動ではなくなっている。そして、スマートフォンやリモートワークの経験はまちでの過ごし方を大きく変えてしまい、そこでの街路の役割が求められています。
 公園は最早、スマートフォンを見るための場所か、インスタグラム用の撮影スポットです。でも、それが現代ですよね。タッチポイントが都市ではなくスマートフォンになっている。そこでもう一度都市デザインや都市計画を考え直していかなければならないところにきているのではないでしょうか。

伊藤 スマートフォンありきで都市デザインがどうあるべきかを考えざるを得ないんですよね。

吉原 ある種の瞬間的なデジタルの出会いに多くの人々、とりわけ若者が驚き、悦びを見出しています。そして空間がそうしたものにすっかり馴化してしまっているように見えます。その場合に、人間の持っている身体性をどう考えるのか。アンリ・ルフェーヴルが『空間の生産』の中で3つの空間の絡み合いについて述べ、それを通底するリズムに言及しています。街路空間にそうした身体のリズムはどう担保されるのでしょうか。かつての街路空間にはそれはあったと思います。では、新たな街路では、デザインはそれにどう向き合っていくのでしょうか。

 空間自体が素晴らしいものではなくても、その背後にあるネットワークが人を惹き付けて、新たなネットワークを呼んでくるという状態がいいのではないかと思います。この場所で何かをしなければならない、というのではなく、でも何か身体性ではないかもしれませんが、オープンマインドの人たちとその周辺のコモンがネットワーク作っていくと思いますし、コモンの中の一つが街路だと思います。

羽藤 今は空間よりも時間だと思います。時間をどこにどう割り付けていくかということにセンシティブになってきている。「健康」への感度が高まる中で、エッセンシャルな行動パターンや外部空間と自宅を結ぶ空間の価値が非常に増していますが、実際にはそうなっていません。
 時間をどう過ごすかのパターンが都市空間の中で上手く作られておらず、一元化されている。ネットワークがまだ進化しきれていなかったり、インターネットで収集して編集した情報が、都市文化や暮らし方に照らし合わせた提案まで落とし込まれていないということでしょう。感度のある暮らし方や歩き方がもたらす時間の過ごし方はとても豊かですし、そうあるべきだと思います。
 歴史的なまちの資源と街路や水路、広場といった自然景観を組み合わせていくような過ごし方で生きたい、暮らしたい、子供を育てたいという感性を大事にしていくことが、まちに人が集まることに繋がるのではないでしょうか。

伊藤 時間のデザインでは、一連の体験を意識してデザインする必要があります。例えば、オペラハウスは観劇後にまちをそぞろ歩きし、食事をしながら語らうまでがセットですが、東京のオペラハウスはすぐ駅から電車に乗るつくりです。立地も含めて、時間概念や体験の連続性がますます重要になってくるのかもしれません。

羽藤 道後温泉でも「道後オンセナート」という、外部空間にアートを置くことで温泉宿に籠るのではなく、外に出て道後温泉の歴史的な文化を体験できるストーリーを提案するような芸術祭に切り替えています。アートは地域資源を呼び込む力もありますし、それをもう一度表現して、呼応する人を呼び、それが周辺の人たちのライフスタイルに伝播していくような気がするので、一つの重要な切り口だと思います。

これからの街路のあり方

伊藤 最後に、これからの街路のあり方や街路に期待するところを教えてください。

 相手をリスペクトしつつ多様な人が関わり煩わしい状況を前向きにとらえて、皆が必要だと思うようなものができれば、皆の関心も集まり、運営やデザインに埋め込んでこられる人が増えると思いますので、街路にはそこを期待しています。

吉原 皆さまのお話を伺っていて、あらためて時間・空間の広がりを意識するようになりました。時間は社会理論でいえば、経路依存的なものに、また空間は創発的なものに関連しています。そういったものを具体的な街路再生の中でどう実践的に埋め込んでいくのかということに思いをいたしました。
 もう一つは、街路再生において当事者主体性の確保は当然であるとしても、同時に他者の眼差しがきわめて重要だということを教えていただきました。自分たちだけの気付きではなく、他者の気付きによって、街路再生の息遣いがその地域に留まらず、社会全体あるいはグローバルに広がっていくことになると感じました。

羽藤 好きな人や家族が、あるいは自分が、豊かな街路空間を歩いている。そこで少し木陰に入って座ったとき、様々な人たちが楽しそうに歩いていたり、様々な風景が見えることは素晴らしい。それらが大切だということを、交通や計画を考える際に、一つのコアに据えて努力していかなければ文化風景は生まれないと思いますね。

伊藤 近年街路の議論が盛んになっていますが、多くは制度や手法の話に終始しがちです。今回は、それぞれのお立場から社会における街路のあり方を語っていただき、より深いクロストークができたように思います。これからの街路を考え、作り、使う手掛かりになればと思います。ありがとうございました。

(撮影:小野田麻里[広報委員])

(左から)伊藤教授、泉氏、吉原教授、羽藤会長