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インタビュー

東日本大震災10年──2

陸前高田の復興と追悼・祈念施設

陸前高田の復興と追悼・祈念施設

海に向かって祈る追悼・祈念施設

──陸前高田の追悼・祈念施設について、海と人あるいは人の思いをどのように結ぶことを考えて設計されたのでしょうか。

内藤 まずおおまかな経緯から説明します。国の委員会で復興祈念施設をつくることが決まり、その候補地選定の委員になりました。岩手県では陸前高田、宮城県は石巻が選定され、福島はまだその段階では留保されていました。その流れで東北地方整備局の追悼祈念公園の委員会(座長:中井検裕教授)に加わることになりました。陸前高田の大きな県営公園の中に国営の追悼・祈念公園をつくる議論が始まりました。
 私自身は、復興のあり方にかねてより疑問があったし、出来上がってくる街の姿に忸怩たる思いもありました。その贖罪の意味も込めて、この復興祈念公園では是非ともたくさんの人が納得してくださるような場をつくりたいと思っていました。しかし、委員会に上がってくるコンサルの提案では「山に向かって祈る」とか「大きな丘をつくる」とか納得のいかない提案ばかりで、いわば迷走状態でした。
 震災遺構については様々な意見がある中で、県としてはできるだけ残そうという方針を決めていました。公園内には旧道の駅高田松原(愛称:タピック45)、旧気仙中学校、ユースホステル、奇跡の一本松などがあり、2kmほどの離れた所には被災した下宿定住促進住宅のアパートもあります。これらはいわば生々しい傷跡です。被災された方は見たくないはずです。
 それらの遺構をやさしく包むような大きなランドスケープが必要だと思い、全部を包むような大きな円弧をなにげなく配置図の上に描いてみました。それから、想いを捧げるのであればやはり海に向かって祈るのだろうと思いました。大きく描いた円弧から、美しい広田湾の真ん中に向かって線を引くと、ちょうど防潮堤と直交する線が描けることが分かりました。これは偶然が重なった奇跡のようなものです。委員会でさんざん議論してきた複雑な与件も、この構図できれいに整理できます。
 そのスケッチを委員会のメンバーに見せたら皆が賛同してくれました。問題はここから先です。この考え方を心あるものにするには、どうしても設計する側に立場を変える必要があります。そこで委員長に相談して急遽委員を降り、コンサルの下で構想案を作成する側に回りました。その後、具体的な案をつくるためのプロポーザルが催され、ランドスケープが得意なプレック研究所とともに提案をして、設計をさせていただくことになりました。

内藤 廣 建築家・東京大学名誉教授
内藤 廣 建築家・東京大学名誉教授

──円弧の形が最初に出てきて、そこから設計されたということですね。

内藤 そのスケッチがこれですね。私たちのように外から見る人間にとっては「100 年先まで記憶をつなげなきゃ」という思いが強いけれど、地元の人にとっては震災遺構を目にしたくない人も多いわけです。家族や友人を亡くされている方もいるので当然ですよね。私は県の震災遺構の委員会(津波伝承まちづくり検討委員会)の座長も務めましたが、残すか否か、そこでもかなり議論がありました。
 復興祈念公園の委員会では、地元の委員は最初はみんな「残さないで全部壊そう」という空気でしたが、何回目かの委員会で青年商工会議所の代表が「このことを100 年後に伝えるには言葉だけでは無理だ」と声を挙げて、それに地元の委員も次第に同調し、やっぱり残そうということになりました。そのような経緯があったので、見たくない人にはあまり気にならないように大きい樹木やランドスケープで遺構をやさしく包み込み、一方で広田湾の真ん中に向かう軸線を中心に追悼の場をつくる、という二つのストーリーを重ね合わせたわけです。

スケッチ:遺構をやさしく包み込む円弧と広田湾に向かう軸線
スケッチ:遺構をやさしく包み込む円弧と広田湾に向かう軸線
スケッチ:遺構をやさしく包み込む円弧と広田湾に向かう軸線

──強い軸線に対して、先端の海に向かうスペースが思いのほか小さくそっと置かれている印象がありますが、あれは意図されてつくったのですか。

内藤 実は、あれは実現が難しいという話もあったんです。当然、防潮堤は性能本意ですから、県の大船渡土木としては防潮堤の上に構築物を置くことについて、あの段階で「イエス」とは言えなかったのでしょう。でも、私は「実はあそこが一番大事な場所だ。あそこがあるために他の全てがある。」と言い続けてきました。構造計算を行い、防潮堤についても調査して、問題がないことを何度かデータで出して、ようやく了解してもらいました。

──エリア全体で考えると建築、公園、それから道の駅の商業、交通の結節点などいろんな機能が入っていますが、空間的にまとめるためにどういうプロセスで進めたのでしょうか。

内藤 私にとっては防潮堤の上のあの小さい場所が一番大事で、震災遺構も展示施設も道の駅も、さらには公園全体も、あの小さな場所に向かうための道具立てみたいなものだと考えていました。海に向かう軸線の片側には道の駅、反対側には展示施設を配置しました。最初は分棟の計画でしたが、防潮堤のスケールに合わせて公園全体のゲートのようにしようという話になりました。震災遺構の「タピック45」、被災を振り返る「展示施設(東日本大震災津波伝承館)」、街の人の暮らしの一端が垣間見える「道の駅」、これらの並び方が復興に向かうプロセスのように見えたので、「復興の軸」と呼んでみたらどうかと提案して、その線上にゲートみたいなシェルターを設けて一体化しました。
 追悼祈念施設も公園も、さまざまな行政区分と異なる専門分野に分かれています。[国・県・市]、[建築・都市・土木]、[道路・河川・公園]など、これらを調整するのがたいへんでした。平野勝也准教授(東北大、土木・景観)と篠沢健太教授(工学院大、造園・ランドスケープ)とともに関係省庁の担当者が加わったワーキングを重ねました。ふだんなら縦割り行政でバラバラですが、この時はみなさんが協力的でひとつのチームになったと思います。あの場所が素晴らしいものになったのはその成果です。

防潮堤の上に設置した「海を望む場」
防潮堤の上に設置した「海を望む場」
防潮堤の上に設置した「海を望む場」

先人に学ぶ復興まちづくり

──次に、まちの復興とはどういうことなのかお聞かせください。

内藤 この国は関東大震災のときも戦災復興のときも、大きな災害の復興というと区画整理事業になっちゃうんですよ(笑)。それしか手立てがないのが問題です。少し違う視点の話をします。被災直後に陸前高田市に行ったのですが、市役所の反対側にあった公民館の入り口のキャノピーが不思議な形をしていたのが妙に記憶に残っています。それはあそこで道路が「くの字」に曲がっていたからなんです。おそらく、前の区画整理の時、できるだけまちを海に向かせようと思って「くの字」にしたんだと思います。
 津波がご専門の首藤伸夫先生(東北大名誉教授)から教えていただいたのですが、明治三陸地震の後に文部省が出した通達には、今も変わらない幾つかの大事なことが書いてあるそうです。「基本的には逃げること」とか、5つくらいの原則の一つに、「まちは海を向くこと」と書いてあるらしい。あれだけ大きい自然と向き合っているんですから当然です。明治時代の人のほうが感覚的に優れていたんでしょうね。本来、海に向き合いながら、人々は暮らしを営むべきだ、ということです。ところが、現在の区画整理はどういうわけか、今泉の山に向かってまちができている。まあ被災後の混乱を思えば、権利関係の整理と制度運用との狭間で、やむを得ない部分もあるのですが……。

──祈念施設は海に向いているけど、まちのほうまでその方向性がないのですね。

内藤 まちからは防潮堤で海が見えないですね。今のままだと、守られてはいるんだけど、「海のことを忘れて生きるまち」みたいになってしまうおそれがあります。長い目で見ると、それは別の種類の危険を抱え込むことになります。私は今、市の博物館を設計させていただいていますけど、建物の屋上から広田湾が見えるようにしています。市の職員の方からも「ぜひ海が見えるようにしてほしい」と言われているので、その大切さをまちの人は分かっているのだと思います。

「復興の軸」とゲート状のシェルター
「復興の軸」とゲート状のシェルター

人口減少下でどのように復興やまちづくりを進めるか

──災害が激甚化していますが、東日本大震災を踏まえ、これからはどのように災害復興を考えていくべきでしょうか。

内藤 建築も都市計画も土木も、東日本大震災の復興のあり方をきちんと検証しておくべきだと思います。そこから得た教訓、良いことも悪いことも率直に語り、反省すべきは反省して次の大災害に備えないと大変なことになります。もし今回の復興が全て正解でうまくいったと思っている人がいるとしたら、それはよほど無神経な人です。
 1万9000人の方が亡くなり、国費を32兆円投入したわけですが、南海トラフでは30万人から34万人亡くなると言われています。ということは大体15倍の被災規模です。今回と同じ手法で対応するとすれば、単純計算で480 兆円になるわけです。国の予算が500 兆円ぐらいですから、あり得ない話でしょう。同じやり方は絶対に出来ない。東日本大震災から10年経って、今こそしっかりと議論しておかなければいけないと思っています。

──津波被災地の復興事業は総仕上げが見えてきたとされていますが、どのような課題が残されているでしょうか。

内藤 知っているのは岩手県のデータですが、ハードウェアの整備は終わりつつあります。三陸はもともと人口減少が大きな課題となっていた場所です。例えば、わたしも加わった大槌町の復興戦略会議では、三陸の自治体で初めて人口推計を発表して大きな話題になりました。データでは2030年には大槌町の人口が半減してしまう。それを考えると、何のための復興事業、何のための区画整理だ、ということになる。住民は高台に移転したけれど、高齢者も多いので20年後はどうなるのかという現実もあります。建設事業は一段落するかもしれないけど、問題はその先ですよね。ここからが本当の正念場でしょう。
もう一つ、比較的うまくいった事例として、女川町は須田善明町長のリーダーシップでかなり良い復興ができたと感じています。また、復興が一番早かったことで話題になった野田村は小田祐士村長が強力なリーダーシップを発揮していました。やっぱり被災地では自治体の首長がどのようなパフォーマンスをするかがとても大事です。そういう社会学的な視点でもう一回見直しておくと役に立つのではないかと思っています。

──平時に求められるリーダーの資質と違うということですね。本日は貴重なお話をありがとうございました。

内藤 廣 建築家・東京大学名誉教授
 
伊藤香織 東京理科大学教授
伊藤香織 東京理科大学教授