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インタビュー

東日本大震災10年──1

国土の復旧とともに、暮らしを再建する

国土の復旧とともに、暮らしを再建する

2021年3月に東日本大震災の発生から10年という節目を迎えます。 津波被災地域は復興の総仕上げの段階に差し掛かり、また原子力災害被災地域の福島では復興・再生に向けた動きが本格化しています。本号では復興に尽力された様々な方々にインタビューや寄稿にご協力いただき、特集としてお伝えします。 まず、被災地域の復興を牽引されてきた岡本全勝元復興庁事務次官にこの10年を振り返っていただきました。

〈岡本全勝 元復興庁事務次官 プロフィール〉
1978年 東京大学法学部卒、自治省入省。
2011年3月11日の東日本大震災直後より、東日本大震災・被災者生活支援本部事務局次長、東日本大震災復興対策本部事務局次長、復興庁事務次官、内閣官房参与、福島復興再生総局事務局長を歴任し、復興に尽力。

国土の復旧から暮らしの再建へ

──東日本大震災の復興について、津波被災地と原発被災地では大きく異なり、それぞれについてお伺いしていきたいと思います。まず、津波被災地は復興の総仕上げに入っていますが、この10年をどのようにご覧になっていらっしゃいますか。

岡本 津波地域は、個別の事情から完成が遅れているのが幾つかありますけれども、インフラ系の復旧はほぼ終わっています。発災後は、まず大きく壊れたインフラを復旧することが課題でした。道路と橋を修復して、学校と公民館を建て直して、住宅を復旧する計画を立てて進めていたんですが、従来の「国土の復旧」だけではまちは戻らないことに気付いたんです。そこで私たちが行ったのは「暮らしの再建」です。
 津波被害を大きく受けた岩手県と宮城県の沿岸では、まち全体が流され、買い物をする店が一軒もない状態となった。沿岸部の町は全部やられているし、内陸の町へは車で1 時間半かかる。日常生活が成り立たない状態だったんです。

岡本全勝 元復興庁事務次官
岡本全勝 元復興庁事務次官

──具体的には、どのようなことをされたのですか。

岡本 最初に手掛けたのは、「産業・なりわいの再生」です。仮設商店や工場の建物を無料でお貸しする。これは国として初めての決断でした。本来、商工業は自己責任で再開するのですが、国費を投入して再開してもらうという、コペルニクス的転換をしました。商店主の多くは高齢者で後継者もなく、震災を機に廃業を考える人がたくさんおられました。しかし、商店を再開してもらわないと、日常の買い物ができません。
 また、この地域の基幹産業は水産業ですが、機械などについては「グループ補助金」制度をつくって補助しました。産業が再建されないと、働く場がなく、地域の活力も戻りません。こうしたなりわいの場を再開する制度は、後の熊本地震などでも活用されています。
 そうして商品を生産できるようになったのですが、販路が他の地域の業者に奪われていて、売れない。販路を開拓するにはどうすればいいか。補助金で低価格にすることも可能ですが、それでは補助金が終わったら倒れてしまう。そこで企業支援相談の「結の場」をつくりました。現地の生産者、復興庁職員、東京などの企業から支援してくれる社員が集って問題点を解きほぐし、さらに専門家に相談して課題を解決していく。地場企業と大企業のノウハウとをマッチングさせる。人とノウハウを提供するわけです。たとえば水産物加工場のベルトコンベアの流れ作業を、トヨタの人が見に来てくれて改善して、生産効率が2割上がった。そのような事例もありました。

まちのにぎわいの復興に必要な3つの要素
まちのにぎわいの復興に必要な3つの要素

──企業や専門家と連携して、細かい部分まで国が復興支援をされたということですね。

岡本 ええ、地方が過疎化する理由は、働き口がないことと後継者がいないことです。暮らしの再建のためには、消費者の側からすると商店が必要だし、生活者からすると働く場が必要なので、ここまで踏み込んだわけです。

──まちのにぎわいに必要な要素としてはもう一つ「コミュニティの再建」がありますね。

岡本 これは二種類あって、一つは見守りです。阪神淡路大震災の時に高齢者が仮設住宅で孤立し、時には孤独死に至ってしまう事案がありました。それまで近所の付き合いをしながら生活していたのに、避難所に入って関係性が途切れます。そこで親しい人をつくっても、仮設住宅に入って途切れ、さらには本設住宅に入ってまた途切れます。周囲に友達や話す人がいなくなってしまう。
 そこで、生活支援相談員が仮設住宅を回って声かけをする見守りを行いました。相談員の中には仮設住宅に住む失業中の女性もいて、知った人なら声をかけられる方も安心です。
 もう一つは、住宅が建った後の、町内会の立ち上げです。公営住宅には集会所を設置して、住民の方に町内会や催し物で使ってもらうようにしました。しかし、お金を出しただけではコミュニティは形成できないし、一時的にできても維持できないんです。
 これらは役所だけでできるものではなく、企業やNPOの協力を得て進めました。まちのにぎわいを取り戻すためには、インフラ復旧のほか、産業・なりわいとコミュニティの再建が必要で、それには予算とともに人とノウハウが必要です。これが、東日本大震災の被災地復興の教訓だと思います。

人口が流出する中で新たなまちをどうつくるか

──そうした中で、現在の課題はどのようなものですか。

岡本 三陸沿岸は、津波の前も10年間で人口が10%ずつ減っていたんです。東日本大震災で大きく流出して、その後も減少が続いた。日本の過疎地域が抱えている課題が、極端な形で現れたのです。被害が大きかった地域では、高台移転あるいは土地の嵩上げ工事に時間がかかって、人が流出しました。陸前高田市など工事期間が長い地域が、人の戻りは少ないです。

──大船渡市では新しい産業、新しい雇用を創出して、復興という形ではなく、新たなまちづくりが進められています。

岡本 大船渡の基幹産業は水産業なので、市長さんは、まず港と魚市場を復旧させた。ほかの港が復旧しないときに、漁船を受け入れた。さすがだなと思いました。しかしここ数年、魚が獲れなくなっていることが問題です。それ以外の産業も工業団地をつくって誘致していますが、日本全体から工場が撤退している時期であるのと、新しい産業は雇用が少ないこと、若い世代が都会へ出て戻ってこないことが課題です。

避難指示の解除時期が遅いほど帰還が少ない原発被災地

──原発被災地の復興について、課題はどのようなことでしょうか。

岡本 津波被害とは、復興のスタート時点も、その後も困難さが全く違います。津波被災地は、津波が引けば復旧作業ができます。しかし、原発被災地は放射線が低くならないと、復旧作業には入れません。放射線量の高いところには、まだ人が入れない。除染作業もできないのです。
 最初は、道路も鉄道も建物もほとんど壊れていないので、避難指示を解除すれば住民が戻ってくると思っていました。ところが、そうはならなかった。津波被災地は多くの人が同じ町村内や近隣へ避難しましたが、原発被災地は遠くへ逃げたので、北海道や沖縄にまで避難しています。子供のいる家族は、避難先で子供が進学すれば転校しにくい。働き手世代は、避難先で就職しています。原発の関係者が多かった町では、廃炉が決まって働く場所がなくなっているので、ますます戻らない。高齢者も、避難先の町が通院など暮らしやすくて良いと言う。解除時期が遅いほど、人の戻りが悪くなります。

──飯舘村は、住民が離れてもつながりを持つ努力がなされていた。

岡本 ほかの町村は原発事故後に着の身着のまま逃げたのに対して、飯舘村の避難は1カ月ぐらい経ってからの「計画的避難」でした。村長の考えで、村から1時間ぐらいの場所に人も役場も皆で移動したので、人々のつながりが失われずに済んだのです。

住民の帰還の状況(試算)[注:令和2年10月1日時点(双葉町のみ令和2年9月2日時点)]
住民の帰還の状況(試算)[注:令和2年10月1日時点(双葉町のみ令和2年9月2日時点)]

──もう一つお伺いしたいのは、人の心の問題です。広野町に開校したふたば未来学園の生徒たちから、避難先でとてもつらい差別を経験したと聞きました。風評被害を含めた問題も大きいと思います。

岡本 福島ナンバーの車が釘か石で傷をつけられたり、子どもたちがいじめにあったりしました。また、津波被災地では、災害遺児や災害孤児がたくさん生まれました。生活支援はいろいろ行ったのですが、目の前で両親を亡くした子もいるんで、本当につらかったと思います。小中学校には先生を加配し、カウンセラーも設置しているですが。先ほどの「まちのにぎわいの復興に必要な3つの要素」の表には、その他に「心の傷をどう戻すか」という重要な4番目があるんです。

避難解除された地域での新たなまちづくり

──原発被災地でも、新たにまちづくりが行われています。津波被災地とは異なる課題を抱えて、帰還した人や新たにこられた人とともにどのように進めてこられたのでしょうか。

岡本 新しいまちには商店、病院、介護施設など公共サービスと私的サービスと働く場所が必要になります。サービス再開は順に進んでいますが、どう企業を誘致していくか、また農業を再開するか。今はそれと闘っています。
 コンパクトシティに成功している地域があります。たとえば楢葉町は、役場の南側に住宅団地、商業施設や公民館を集約して、まとまったまちとなっています。富岡町も、震災の前に富岡駅から国道6号までの土地区画整理がほぼ終わっていたところだったので、そこを拠点としてショッピングセンターを再開し、住宅も建てて、まちの機能を集約しています。
 まちを一からつくるのは、想像以上に難しい。国だけではなく、現地の役場にもそれを実施した経験もなければ、ノウハウも人もいない。そこでUR(都市再生機構)にコンストラクションマネジメント(一括委託)という形でお願いしたんです。第一号が女川町で、原発被災地の新しいまちづくりもURにお願いしています。大熊町では大川原地区が放射線量が低かったので、住宅と町役場をつくりました。双葉町でも今、進められています。

──イノベーションコースト構想やふたば未来学園をはじめ、再興ではなく、ここから新しい福島をつくっていこうという動きがあります。

岡本 まちを復活し、戻すということには、二つあると私たちは考えています。「帰還」戻るという要素のほかに、新しい人に来てもらうことです。
 その一つが、イノベーションコースト構想であり、いま復興庁が力を入れている国際研究教育拠点です。廃炉作業やロボット、ドローンなど、新しい時代の研究拠点をつくろうというものです。従来の産業に戻ってもらうだけでは新たな発展は見込めないので、新しいものに挑戦していくことが必要です。ただ、とても難しい。日本中で、世界中で競争している。未来型の産業は機械化が進んでいて、たくさん雇用を生み出すわけではないんですよね。かつ、リモートワークのように、パソコンと通信さえあれば、どこでもできるようにもなってきている。

避難指示区域等の概念図(令和2年10月30日時点)
避難指示区域等の概念図(令和2年10月30日時点)

次に自分たちは何をなすべきかを考え続ける

──復興に向かう姿勢として重視したのはどのようなことですか。

岡本 大震災の被災者生活支援本部事務局次長に指名されて考えたのは、「役人の底力を示したい」ということでした。当時の民主党政権は、政治主導ということで、官僚が疎外されていました。しかし、行政の各分野に精通しているのは、官僚です。医療の復旧は厚労省の職員でないとわからない、学校を復旧するには文科省の職員でないとわからない。道路を復旧するにしても、工事は企業がしてくれますが、計画をつくって予算を確保し、発注する業務は公務員です。
 また、職員には、どんどん現場に行ってもらいました。まず現場で何が必要か、地元の悩みを聞いてくる。復興庁という窓口で聞いて、各省の専門家と議論する。「それは私たちの仕事ではありません」ということを言わないようにした。
 私自身は、「次に私たちは何をすべきか」を考えていました。これまでにないことですから、前例がない。しかも時間が経つと、現地の課題が変わっていきます。地元からの要望、政治家からの指摘、時にはマスコミからの批判も貴重な情報でした。
 これまでにない大災害だったので、いろいろ前例のないことをやらせてもらいました。ここまで復興できたのは国民が「それだけの大災害だ」ということを理解してくださって、私たちを後押しして下さった、例えば増税にも納得いただいたからだと思います。

──ありがとうございました。

岡本全勝 元復興庁事務次官
 
茶木環 広報委員長
茶木環 広報委員長